1975年 福岡県北九州市生まれ。
東京大学法学部卒、ラサール高校卒。
大学4年在学中に司法試験に合格。
2年間の司法修習(52期)を経て、最年少(当時)の 24歳で裁判官に任官。
裁判官任官後、民事訴訟、医療訴訟、行政訴訟、刑事訴訟等に左陪席裁判官として関わる。
民事保全、証拠保全、民事執行、破産、令状等も担当。
03年 弁護士に転身。
中小企業の総合的法律援助(紛争予防法務,債権回収,示談・訴訟対応,会社法実務,契約書
その他法律文書の立案・鑑定,労使関係等)、起業支援、著作権、相続・親族関係、交通事故、借地借家等を得意としている。
医療やメンタルヘルスの分野にも力を入れており、
2011年NPO法人日本融合医療研究会の理事に就任。
【著書】
2006年4月 『会社の健康リスク対策は万全か』(フィスメック)
2011年4月 『ビジネスの法律を学べ!』(ディスカヴァー21)
2013年7月 『憲法がヤバい』(ディスカヴァー21)
2014年7月 『本物の勉強法』(ダイヤモンド社)
2016年6月 『図解でスッキリ!民法改正 重要テーマ100』(中央経済社)
2017年7月 『憲法がヤバい 改訂版』(ディスカヴァー21)
近所の保育園がすべて定員だったため入園できず。4歳の途中で、空きの出た遠方の保育園に入園。途中入園だったため、他の園児たちの前で、「今日から新しくお友だちになる、たかひろ君(私)とM君(一緒に入園した幼馴染)です」と紹介された。この場面は鮮明に覚えており、おそらく、一番古い記憶。
その後、毎日、祖母に連れられて、2歳年下の弟と一緒に、路線バスで、通園した。
そのためか、バスの運転手に憧れるようになり、小学校に入学し、自転車に乗るようになってからは、自分で近所のバス停を決め、時刻表を作って、自転車をバスに見立て、独りでバスごっこをやっていた。
バス通園のお蔭で、行先表示の漢字を覚えることができた(「愛の家前」行きとか「砂津」行きとか)
年長になると、お昼寝の時間が嫌で仕方なくなり、母親に、保育園を辞めると訴えるようになり、母親を困らせた。市役所の職員だった父親が、たまに、土曜日のお昼寝前に保育園に迎えにくることがあった。その日は何より嬉しかった。
休みの日に到津遊園地(当時)に行くことが楽しみで、身長制限のあるジェットコースターに乗ることが夢だった。しかし、その後、遊園地が無くなって公園になったため、夢は叶わなった。
北九州市小倉北区の南小倉小学校に入学。小5までは、自宅で勉強をした記憶がない。
低学年の頃は、近所に子供が少なかったため、帰宅後は、私と弟、Mくんと、Mくんの弟の4人で公園で野球をしていた。4人の野球だと、2対2なので、ピッチャー以外の守備が一人になるが、バッターが一塁ベースを踏む前にボールをキャッチすればアウトとか、独自のルールを作って楽しんでいた。
中学年になってから、ファミコンがブームになったが、親に買ってもらえなかったので、友達の家に行ってファミコンをやることが楽しみだった。当時、最も流行ったスーパーマリオブラザーズが8-1面までしかクリアできなかったことが心残り。
(その頃の反動で、大学に入学して独り暮らしを始めてからは、スーパーファミコンを購入し、連日連夜、ドラゴンクエストⅤ、Ⅵに興じていた。)
小3~小4の担任だったY先生が、ホームルームで、「子供のころに勉強せんかったら、大人になってから、勉強しとけばよかった~って、後悔するんよ」と仰ったことを鮮明に覚えている。
小4の夏休みに入る前、宿題の読書カードに、「夏休み、本を1万ページ読むことを目標にしましょう」と書いてあった。そのカードを母親に見せたところ、母親から「40日で1万ページなら、1日250頁だから、1日2冊読めば達成できるね」と言われた。そのくらいなら出来ると思い、絶対に達成しようと決めて、毎日図書館に通って本を借り、1日2冊を読み続けた。何とか1万ページを達成した。達成への道のりを書いた作文が市のコンクールで入選した。このときの体験(快感?)が、その後、
「目標→計画→達成」を繰り返すようになった原点になった気がする。
父親が熱烈な高校野球ファンで、小学生の頃は、父親に連れられて高校野球を観に行き、父親の母校である小倉高校を応援していた。自然と、小倉高校に憧れるようになった。親戚(はとこ)のお兄さんが小倉高校野球部のレギュラーで活躍するようになってからは、練習試合にまで足を運んで応援していた。父親からは、弟と一緒に、よく登山にも連れて行ってもらっていた。山頂に到達したときの
喜びの体験も、目標達成欲を高めることにつながった。
小5の終わりに、受験塾の模擬試験を受けさせられた。学校の宿題以外に勉強をしたことがなかったので、当然、全くできず、「合格可能な中学なし」という判定を受け、ショックを受けた。同じクラスの女子に負けていたので、さらにショックを受けた。
悔しさを晴らしたい気持ちと、目標を達成したいという気持ちが高まって、地元の名門である明治学園中学校を目指すことにした。学校への憧れがあったわけではなく、目標を達成したいという気持ちが強かった。
後から聞いた話だが、母親は、当初、私の受験に反対で、公立中学でいいじゃない・・と思っていたそうである。受験といっても、近所に塾はなく、勉強のやり方も分からず、書店で、受験科目である国語と算数の参考書か問題集を買ってもらって自己流で勉強していた。
小6になって、北九州市八幡西区に引っ越し、上津役小学校に転入した。
その頃、明治学園を受験する人は全教研という塾に通うらしい、ということを知り、全教研出身の合格者の話を聴く説明会に参加した。前年の合格者(中学1年生)10数名が会場の前面に並んで、各々体験談を話していたが、1人、ラサール中学の合格者がいて、ひときわ輝いて見えた。そのときは、自分が将来、ラサール高校に行くことになるとは、想像も及ばなかった。
近所に塾がなかったため、参考書や問題集を解いて、分からないときは、父親に教えてもらっていた。ただ、独学では限界があり、算数の問題が解けなくて泣いていると、父親から、もうやめなさい、と本気で止められた。
月1回、明治学園模試があると聞き、受けるようになった。
点数は合格ラインに達しないものの、
「合格の見込あり」という判定に、自信がついた。
その頃、遠い親戚のおじさんの家に行く機会があった。そのおじさんは、風貌が恐ろしく、当時は、絶対にヤクザに違いない、と思っていた(もちろん、ヤクザではない)。おじさんから、「お前、中学受験の勉強しよるんか!」と言われた。
私は「勉強なんかせんで、スポーツをやれ!」と怒鳴られると思い、ビクビクしていたが、おじさんから、
「やるんやったら、とことん、やらんといかんぞ」と言われた。子供ながらに、自分のやっていることに、お墨付きをもらった気がして、「とことんやろう」と決めた。
夏休みに入ってからは、高速バスで、全教研の夏期講習に通った。初めての塾通いで、とても新鮮だった。衝撃を受けたのは、確率の問題で、「4個の中から、3個を選ぶ選び方は何通りあるか?」という問題だったが、塾講師から
「3個選ぶということは、1個選ばないということだから、1個を選ばない選び方は4通りだね」と教えられ、解くことの面白さを感じた。毎日、新鮮で楽しかった。
夏休み明けの明治学園模試で、初めて、合格確実の判定をもらい、成績優秀者の表に載った。
その後は、再び、合格の「見込あり」の判定に戻ってしまい、少し残念だったが、合格できるかもしれない、と思うようになった。
最後まで、合格確実ラインには乗らなかったが、何とか合格することができた。
明治学園中学に入学。入学初日、クラスに、模擬試験で成績優秀者の表に載っていた人が、ごろごろいて、そんな人達に会えて嬉しかった反面、「落ちこぼれるかも……」という危機感を抱いた。
入学初日、担任の先生から、
「1日最低3時間の自宅学習を習慣にしなさい」と言われ、
そうしようと思い、1日3時間は復習や予習をすることに決めた。
実際は、先生の話を真に受けて、入学当初から、そんなに勉強をしていた人はいなかったようで、最初の中間試験で、1番をとることができた。
憧れていた優秀なクラスメイトを差し置いて1番をとれたことに、とても驚いた。
期末試験では、M君が1番で、私は2番だった。その後、中学2年まで、M君と私で、交互に1番、2番を取り合うことになる。M君が1番だったとき、ガッツポーズをしているM君を見て奮起し、次の試験では私が1番になる、という感じだった。
当時、明治学園は男子の高校が付設されていなかったため、男子は全員、高校受験をしていた。明治学園からは毎年、ラサール高校に10名ほど合格していたので、自分もラサールに合格するかもしれない、と思うようになった。
私が頑張っている姿を見て、いつも母方の祖父が喜んでくれていた。母親は三人姉妹で、祖父は男の子が欲しかったそうで、初孫の私が産まれたとき、ひときわ喜んだそうである。
中学3年になると、M君は断トツのトップになって全く敵わなくなり、さらに本気で受験勉強を始めた何人かにも抜かれるようになった。
何とか10番以内は保っていたので、ラサール高校を目指し、無事に合格できた。
卒業式の日、担任のK先生から、
「誠実であれ」という言葉を贈られた。
この言葉は、私の心に染み入っており、いまでも、K先生の言葉を思い出しながら、自分は誠実かどうか、自問自答している。
中学卒業後の春休み、ラサール高校から、「入学した直後に、数学Ⅰのテストをやるので、シグマベスト数Ⅰの参考書を全て勉強しておくように」という通知が届いた。ラサール中学から進学する生徒は、中学の間に高校の数Ⅰを終了しているため、進路を合わせる必要があったらしい。「数Ⅰの参考書を丸々1冊、春休み中にマスターしろ」という指令に驚いたが、仕方なく、参考書を購入して勉強した。
高校入学の当日、クラスには、明治学園中で断トツの1番だったM君がいた。クラスメイトの全員が天才に見えた。
数Ⅰのテストでは、外部から入学した104人中36番位だった。悪い成績ではないが、当時、ラサール高校の文系から東大に合格するのは10数名だったので、東大を狙えるような成績ではなかった。
高校では、1~2年生の間は、高校の敷地内にあった寮で生活していた。寮は個室だったが、
3畳程の部屋にベッドと机……という狭苦しい空間だった。夜の8時に点呼があるので、それまでに寮に戻る必要があり、夜8時から消灯時間の12時までは、自室にいなければならない決まりがあった。夜8時以降に友達の部屋に集まり、遊んでいるところを寮長に見つかって怒られる、ということは日常茶飯事だった。
ゴールデンウィーク、夏休み、冬休みには、北九州市の実家に帰省していた。当時は、まだ新幹線が開通しておらず、レールが単線の地域もあったことから、鹿児島から北九州市まで、片道で5時間以上かかった。今は、新幹線が開通し、1時間40分で北九州市に到達するというから、驚きである。
1学期の中間試験が2週間後に迫ったとき、試験範囲の教科書やノート、プリントを試験までに繰り返し回せるように、
工程表のような計画表を作ったところ、中間試験では4番をとることができた。このときの好結果に味を占め、その後の定期テストから、2週間前の日曜日に、半日くらいかけて計画を練り、
試験までにすべての範囲を最低5回繰り返せるような計画表=工程表を作るようになった。
とは言え、学校の定期試験では安定した結果が出ても、やはり地頭の良い人や天才的な人にはかなわず、外部の模試の結果はふるわなかった。
高2から理系、文系でクラスが別れるため、高1の終わりに、文系に進むか、理系に進むかの選択を迫られた。父親が法学部の出身だったこともあり、自分も何となく文系の法学部に進もうかと考えていたが、周りに医学部を志望する同級生が圧倒的に多く、影響を受けて(流されて)医学部も考えるようになった。
悩んでいた頃、正月の親戚の集まりで、佐賀の裁判所で調停委員をしている不動産鑑定士の親戚から話を聴くことができた。その親戚から、「目の前で裁判官を見ていると、裁判官というのは、いい仕事だと思う。自分の考えで仕事ができるし、途中で弁護士になることもできる」という話を聴いた。それまで、裁判官という選択を考えたことはなく、仕事のイメージも全く沸かなかったが、
裁判官の仕事にも興味をもつようになった。
高2からは文系に進み、東大の法学部(文科1類)を目指した。
高3からは、学校敷地内の寮を退出し、学校が提携している下宿住まいをした。
私は、一軒家の2階で他の同級生2名と一緒に下宿させてもらった。下宿生3名それぞれに個室の部屋が与えられ、部屋も広く、寮生活に比べれば、圧倒的に快適だった。
高3になると、定期テストの他に、毎週のようにテストがあり、日曜日には模擬試験を受ける、といった本格的な受験勉強をしていた。その頃には、計画表のグレードもアップし、定期試験の成績は安定していたが、相変わらず、模試の結果はふるわなかった。それでも、高3の夏休みに猛勉強をした結果、夏休み明けの東大模試で初めてA判定をもらうことができ、自信になった。
比較的最近まで、半年に1回くらい、就寝中に見る夢があった。それは、高校の定期試験前の教室に自分がいる夢で、毎回、「大学に合格して、司法試験にも合格したと思っていたけど、全部夢だったのか……」「定期試験の前なのに勉強していない……」と思って落ち込んでいるうちに目が覚めて、よかった……と思うのである。不思議と、毎回、夢に出てくるのは、司法試験の受験時代ではなく、高校の定期試験前。それだけ頑張ったからなのか、よほど、追い詰められていたのか……。
東大の合格発表を見た後、本郷三丁目の駅に向かう途中の喫茶店で、司法試験予備校の説明会が開催されていた。立ち寄ってみたところ、喫茶店の4人掛けの席に誘導され、私の正面に座った説明担当の人から
、「司法試験は日本で1番難しい試験です。日本で1番難しいということは、世界で1番難しい試験です」と言われ、心が熱くなった。
さらに、東大の4年生で前年の3年時に司法試験に現役合格した人が現れ、
大学1年から司法試験の勉強を始めれば、大学3年での合格も可能であることを切々と語った。
この2人に感化(洗脳)され、
自分も大学1年から司法試験の勉強を始めて、大学3年で合格しよう!と決めた。そのときは、弁護士や裁判官になりたいというよりも、難しい司法試験に挑戦したいという思いが強かった。
大学に入ってから、独り暮らしを始めた。住まいは、東大の駒場キャンバスから徒歩数分の学生専用の小さな古いアパートだった。風呂がなく、銭湯まで10分くらいかけて、毎日通っていた。
大学1年から司法試験の予備校に通ったが、50人位のクラスメイトのうち、1年から司法試験予備校に通っていたのは私を含めて3人だった。
駒場からは渋谷が近く、下北沢も近く、友人に誘われて遊び歩くようになり、小学校のときに買ってもらえなかったファミコンにハマり、徐々に勉強に身が入らなくなっていった。
大学に入学するまでは、受験に合格するという明確な目標があり、毎日、学校に通うことが当たり前だったが、大学に入ると、出席を取らない授業がほとんどで、学ぶ意義も見いだせず、徐々に大学にも通わなくなった。司法試験への意欲も薄れてきて、何を目標に生きればいいのか分からなくなり、自宅に引きこもりがちになる。
冬になると、インフルエンザになり、治ったと思ったら、また別の型のインフルエンザにかかってしまい、本当に死ぬかと思った。心も身体も疲れ果て、心配した母親が上京して、北九州の実家に戻ることになった。大学を辞めて出家をしたいと両親に相談した。
そんな折、地下鉄サリン事件が起こった。後になって、オウム真理教による犯行と判明するのだが、東大出身の実行犯や幹部も多く、他人事とは思えなかった。私自身も、弱っているときに勧誘されたら、危うかったと思う。実家で静養して徐々に回復し、大学2年からは、何とか大学に通うことができるようになった。
大学2年になると、司法試験の勉強を始める同級生も増えてきた。ラサール高校の同窓生で、高校では常にダントツの1番だったS君もその一人だった。当時、大学教養課程の修了が司法試験の受験資格になっていたが、一次試験という教養試験に合格すれば、大学を出ていなくても、受験資格が得られた。S君は、大学2年になるや一次試験を受けて合格し、司法試験を受験するツワモノだった。私も刺激を受け、大学3年での司法試験合格を目標に、勉強を再開した。
司法試験予備校の講師(伊藤真先生)から、
合格する秘訣として、合格後の自分の姿をネクタイの色まで鮮明に思い描くことを教わり、“イメージトレーニング”も実践するようになった。イメージトレーニングの一環として、東京地方裁判所の法廷傍聴にも赴いていた。法廷傍聴で特に印象に残っている事件は、学生だった被告人が後輩を殴ったり蹴ったりして死なせてしまった傷害致死事件。被告人は保釈中で、かなりラフな格好で出廷していた。その姿を見た裁判長が、被告人に対して、「被害者の〇〇君に対して申し訳ないと思わないのか。」と切々と諭していた。裁判官って意外と喋るんだ……と感じた。
そのときの裁判長がかっこいいと思ったことは、裁判官を志したきっかけの一つとなった。
当時の司法試験は、5月に択一試験(憲法、民法、刑法の3科目。マーク試験)、7月に論文試験(上記3科目の他、商法、訴訟法、選択科目の合計6科目)、10月に口述試験(上記6科目)という日程だった。
大学3年の5月に択一試験を受験して合格し、この調子で論文試験にも合格するだろうと思っていた。論文試験の合格発表は、当時交際していた彼女と一緒に見に行った。合格して喜びを分かち合う予定だったが、私の番号はなく……呆然としたまま、彼女と日比谷公園を彷徨っていると、ベンチで俯いているS君と、その隣で困った顔をしているS君の彼女に遭遇した。S君でも落ちるんだ、と思い、少し気が楽になった。
後日、S君から、「彼女と一緒に合格発表を見に行くような驕りがあるから、神様が落としたんだよ」と言われ、そのとおりだと思った。大学4年では、
受験当日に「やるべきことは全てやった」と思えるようにしよう、と心に誓った。
敗因は、試験に出そうなところ(いわゆる「論点」)しか勉強しておらず、深く考える力が圧倒的に欠けていることにあった。そこで、まずは基礎からやり直そうと考えて、日々、大学の図書館で、各科目の基本書(教科書)を腰を据えて読み込んだ。
試験に出そうな箇所だけでなく、自問自答しながら、全体をしっかりと読み込んだことで、現在の仕事にも活かされている思考力が身に付いた。
しかし、論文の模擬試験では、本番の直前まで、一度も合格ラインに載ったことがなかった。
他方、S君は、やはり本気を出せば強く、模擬試験では1番だった。
S君とは、毎回の模擬試験終了後に喫茶店に寄り、1問1問議論をすることが恒例となった。
私の頭の中に、天才の思考がインストールされていくような感覚があった。
本番の試験が近づくと、当時3つあった大手の司法試験予備校(LEC、早稲田セミナー、辰巳)が数回にわたって予想問題の模擬試験を実施していたが、S君、同級生のA君、私の3人で分担して受け、問題の情報交換をした。つまり、その年の受験生が受けた予想問題を全て把握したことになる。
迎えた司法試験の当日。司法試験の受験界ではカリスマ的な存在である伊藤真先生が、試験会場の入り口で、受験生一人一人に手紙を配っていた。すぐに手紙を開いた。「顔を上げて緑に生い茂っている木々に目を向けてください」「司法試験に合格して幸せになっている人よりも、不合格になって幸せになっている人の方が多いのです」という言葉が心に染み入った。視野が狭くなっていたことを反省すると共に、落ち着いた気持ちで試験会場に入ることができた。
予想問題を全て網羅した甲斐もあり、本番の論文試験では、6科目12問のうち10問的中した。他方、民法の1問は、今まで考えたことが全くなかった問題で、全くできず、落ち込んで試験会場を出たが、私以上に落ち込んでいるS君を見て、「S君が出来なかったのなら、誰も出来ていない」と安心し、その後の試験も平常心で臨むことができた。
司法試験に合格した後は、ここぞとばかりに遊びまくり、友人の家々を泊まり歩いた。
これまでの人生の中で、最も驕り高ぶり、謙虚さを欠いていた時期だったと思う。
当時は、東大出身の大蔵省官僚と銀行担当者との接待を始めとした官僚の不祥事が社会問題となっていた。そのため、東大の卒業式には多くのマスコミが詰めかけ、式の様子をカメラに収めていた。卒業式では、大学の総長が、「最近、わが校の卒業生の不祥事が相次いでいますが、わが校の卒業生の多くは活躍し、世界的にも評価されているので、皆さんは自信をもって社会に出ていってください」という話をした。ところが、その日の夜の某ニュース番組では、官僚の不祥事の話題の後、総長の「最近、わが校の卒業生の不祥事が相次いでいます」という場面だけを放映した。あたかも、総長が卒業生の不祥事を嘆いているような印象を与えようとする露骨な編集を目の当たりにし、
テレビで流れる映像が必ずしも真実とは限らないことを学んだ。
司法修習の開始前、司法試験予備校(伊藤塾)が主催したアメリカ司法見学ツアーに参加した。
司法修習予定者を対象にしたツアーで、30名程が参加していた。ボストンの法廷で刑事裁判を傍聴したが、検察官が紙芝居のようなパネルを使って傍聴人に説明している姿が印象的だった。陪審員の中にはラフな格好の若者もいて些かの不安も感じた。
ハーバード大学やワシントン大学を訪問して法学の授業に参加した。現地の学生に各授業の案内をしてもらったが、
私たちに授業内容の説明をする際、必ず「自分の意見は〇〇です」と述べるところに日本との違いを感じた。
大手の弁護士事務所を訪問したときは、施設の素晴らしさ参加者の多くが目を輝かせており、見学終了後、引率者のスタッフが「皆さんの感激を本にしよう」と言っていたが、私は内心、あんなに人がたくさんいる職場で働くのは絶対に嫌だ……と思っていた。
当時の司法修習は2年間。最初の6か月間は、司法修習生の全員が埼玉県和光市の司法研修所に通い、その後1年6か月間、全国各地に散って、弁護士事務所、裁判所、検察庁で、実務研修を行う。最後の6か月間は、再び司法研修所に通って、最終試験を受ける。
前期修習(和光市の司法研修所)~6か月間
司法修習生(700名位)を1組~12組にクラス分け。私は12組。各クラスごとに、裁判官の教官2名(民事裁判担当、刑事裁判担当)、検察官の教官1名、弁護士の教官2名(民事弁護担当、刑事弁護担当)の合計5名が就いていた。
同期生に誘われて懇親会に参加することが増えたが、学生時代にあまり縁のなかった飲酒を繰り返すなかで、自分がお酒を飲めない体質であることが分かった。
ある日、登山好きの同期生Nさんから、「登山の会をつくるんだけど、白川は若いから参加するよな」と言われて参加することに。最初の登山は「北岳」。Nさんを含む同期生5名くらいで登ったのだが、北岳が富士山に次ぐ標高の山だと知らず、私だけハイキング気分で運動靴で登ってしまった。北岳を制覇したことが自信になり、その後も、「修行」のつもりで、登山に参加した。
弁護士研修:埼玉県川越市の法律事務所~3か月間
実務研修。私は、川越市内の法律事務所でお世話になった。最近は、裁判官が弁護士事務所に出向して経験を積む制度もあるようだが、当時は、そのような制度もなく、裁判官志望だった私にとって、弁護士業を経験する貴重な機会だった。
担当して頂いたのは島田浩孝先生。島田先生の“お供“として、法律相談や法廷に立ち会ったり、裁判所に提出する書類の起案を手伝ったりする。これまでの机上の勉強では事実関係は既に与えられていたが、
弁護士の実務では、何もないところから事実関係と依頼者の望みを把握しなければならない。それまで勉強してきた法律など二の次だった。依頼者の話を聴くことの大切さを学ぶ。島田先生が、ふと「人の能力は、好奇心で決まる」と仰ったことが強く心に残っている。
検察官修習:浦和地方検察庁(現さいたま地方検察庁)~3か月間
検察官研修では、容疑者の取り調べをして、供述調書を起案する(最終的な取り調べと調書作成は、研修担当の検察官が実施する)。
傷害事件の容疑者を取り調べた際、容疑者から「同じことを何度も聞くな!」と怒鳴られ、殴られそうになりながら、毅然と取り調べを続けたことも、今では良い思い出である。
検察官研修では、取り調べ以外にも様々な体験学習がある。たとえば、【JR研修施設での電車運転のシュミレーション】(「電車でGO」というゲームに似ているが、運転していると、電車の前に人が飛び込んできたりする)、【研修室で酒を飲みながら呼気検査を繰り返す実験】(酒に弱い自分にとってはツラい研修だった)、【押収されている違法ビデオを見ながら、わいせつとは何かを考える】など。刑事の「すり」捜査に同行させてもらったこともあった。刑事と一緒にオートレース場に行って、「すり」がいないか、目を光らせた。
刑事から、「あいつの目つきは、‘すり’の目つきだ」「‘すり’の目つきと、‘ちかん’の目つきは違う」などと教えてもらった。その日の研修は現地解散で、研修後、オートレース場に行ったついでに初めて車券(競馬でいう馬券)を買った。どの選手が強いのか分からず、とりあえず、私の出身県である福岡県の選手2名の連勝で購入したところ、その2名が1、2着に入った。倍率が高かったようで、500円位で購入した車券が、1万円位になった。
裁判官研修:浦和地方裁判所(現さいたま地方裁判所)民事3か月、刑事3か月
民事裁判の研修では、修習生2名ずつが1つの部署に配属されたが、私は、当時66歳の司法修習生Nさんと同じ部署になった。Nさんは、何十年も前に司法試験に合格していたが、銀行に就職し、定年となってから司法研修所に入所していた。裁判所の研修担当者は、相乗効果を狙って、最年長のNさんと最年少の私を、あえて同じ部署に配属したらしい。Nさんは、常々、「学生時代に戻った感じがする」と言っていたが、私も、Nさんを今でも友人のように感じている。もし私が銀行に就職していたら上司と部下の関係だったはずのNさんが、司法修習では同期の友人になるというのは面白い。
裁判官の研修では、法廷内の修習生席(裁判官が座っている壇の横あたり)に座って法廷を傍聴し、その事件について裁判官と議論したり、判決の起案をしたりする。
民事裁判の研修で、法廷傍聴の後、私が裁判長に、「この事件は、法律的に考えると、こうなりますよね」という議論を持ちかけたところ、裁判長から、「だから、お前はダメなんだよ。事件の落としどころを考えないと」と言われた(裁判長は「お前はダメなんだよ」が口癖だった)。
それからは、どうすれば争っている当事者が諦念に達して事件が解決するかを第一に考えるようになった。裁判所の研修でも、法律は二の次だと感じた。
後期修習(和光市の司法研修所):裁判官を志望した動機について
実務研修が終わった後、再び、全ての司法修習生が和光市の司法研修所に通う後期修習が始まった。後期修習では、前期修習と同じクラスで、仕上げの授業を受け、裁判記録を読んで判決等を起案するテストが実施される。
私は、実務修習を経た後も裁判官志望は変わらなかったが、正直なところ、自分が弁護士としてやっていくのは厳しいのでは……という思いがあり、そのことが裁判官を志望した理由の一つになったように思う。弁護士は依頼者がいなければ収入は得られず、営業もしなければならない。私は性格的に人見知りであり、営業をやっていけるのかという不安があった。
裁判官は国家公務員で収入が安定しており、営業も必要ない。
もっとも、今になって思うと、集団活動が苦手な私は、どちらかと言えば、裁判所という大組織の方が不向きで、弁護士になった後の方が、伸び伸びと自分らしさを発揮できている気がする。弁護士になってから、
人見知りだから営業ができないという論理が間違いであることが分かった。
千葉地方裁判所 刑事部
私は、初任として、千葉地方裁判所の刑事部に所属された。法廷の壇上に座っている3人の裁判官は、真ん中が裁判長で、傍聴席から見て右側(裁判長から見て左側)に座っている裁判官は、「左陪席」裁判官と呼ばれている。地方裁判所の左陪席には、通常、新人や若い裁判官が座る。裁判官は、初任の1年目からその席に座って裁判に携わり、法廷の壇上から被告人に質問をしたりもする。合議事件の判決は、まず一番下っ端の左陪席裁判官が下書きの判決を作り、裁判長に合議しましょうと呼びかけ、裁判長ともうひとりの裁判官(「右陪席」裁判官)とで合議する。
裁判官は、どれだけ事件を終わらせたか、つまり「事件の処理件数」を非常に気にする。毎月、その月に配転された事件よりも終わらせた事件が多かったら黒字(逆だったら赤字)などと言っていた。千葉地裁の刑事部は、当時、刑事1部から3部まであり、各部に裁判官が3名(裁判長、右陪席、左陪席)いた。私は刑事1部に配属されていたが、ある月に頑張って、かなり事件を処理して判決をたくさん出し、未処理の事件数を減らした。すると、他の部に比べて未処理の事件数が半分になり、裁判長から、お褒めの言葉を頂いたこともあった。
私が配属されていた刑事1部の久保眞人裁判長は素晴らしい方で、ベストセラーとなった『裁判官の爆笑お言葉集』『裁判官の人情お言葉集』(幻冬舎新書。長嶺超輝著)にも登場している。
特に心に残っている事件として、父親である被告人が、大学生の息子の首をしめて殺したという事件があった。
被害者である息子は小さい頃から統合失調症にかかっており、家の中で暴れ、家中の窓ガラスを割ったり、母親を殴って骨折させたりするようになり、被告人の父親はその度に止めに入って暴走を抑えながら、旅行に連れて行くなどしてかわいがって育ててきたが、被告人も年をとってきて力も敵わなくなり、最後はもみ合っている最中に殺してしまった……という事件だった。
この事件では、最終的に実刑の判決となったが、久保裁判長が判決を読み上げた後、被告人に対して、「私もあなたと同じような年齢の子どもがいるので、あなたの気持ちは良く分かります」と説諭した。被告人は、久保裁判長の言葉を受けて、控訴しなかったそうである。
久保裁判長は、「法律に書いてないことは自分の信念で何でもやっていい」というスタンスだった。ある殺人事件で、被害者の遺族の方から「遺影を持って傍聴したい」という申し出があった。
現在は許可が出ると聞いているが、当時は不許可とされていた。
そのような時期に、裁判長から、「被害者の遺族から、遺影を持って傍聴したいという申し出が来ているんだけど、どう思う?」と聞かれた。私は新人だったため、裁判所の取扱いを知らず、「遺影に傍聴させたいというお気持ちなのだろうから、いいのではないでしょうか」と答えた。
すると、裁判長は、「じゃあ認めましょう」と仰り、許可となった。
この件は、当時、裁判所内で物議を醸し、裁判官会議が開かれた。裁判官の中には、遺影がプレッシャーになるとして遺影の持ち込みに難色を示す方もいた。
この事件では、もう一つ、思い出がある。裁判官が判決を読むとき、通常は、被害者の名前を呼び捨てにする(例えば、「被告人は、鈴木太郎(仮名)を殺害し……」というように)。
私が裁判長に、「傍聴席に遺族の方もいるので、被害者に“さん”付けをしたらどうですか?」と言ってみたところ、「じゃあそうしましょう」ということになった。
「事実認定」が難しい事件も多かった。中でも一番難しかったのは、若い男性の被告人が交際していた被害者の女性を車の中で殺害したという事件だった。被告人は、「自動車の中で、被害者の女性から殺してほしいと頼まれたから殺した」と主張していた。嘱託殺人罪ないし同意殺人罪は殺人罪よりも法定刑が軽いため、被害者の同意があったのかが争点となった。いわば密室内の殺人であり、被害者の方は亡くなっているため、本当に難しかった。
裁判官3名と司法修習生4名も交えて徹底的に議論した。
民間企業研修
その後、「民間企業研修」として、4か月間、某大手通信会社に在籍することになった。
この研修では、民間企業に在籍して社員と同じような仕事をさせてもらい、社会経験を積むというものだった。所属先の企業で名刺も作ってもらい、社員の営業に立ち会ったりした。営業先では新人の社員と思われ、先方の担当者から「おい、お前」と言われたり、私が渡した名刺をぞんざいに扱われたりしたこともあった。
営業の大変さが身に染みて分かった。
山形地方裁判所 民事部
その後は、山形地方裁判所で民事部に所属した。
民事裁判は、法廷での手続(弁論手続)が基本だが、裁判官室という会議室のような部屋で争点を整理したり、和解の協議をしたりする「弁論準備」という手続も実施される。
若手の裁判官であっても、裁判長から「弁論準備」の手続を任されることがある。
私が一人で進めた「弁論準備」で、当事者双方を説得し、和解が成立したときは、当事者や代理人の弁護士から御礼を言われて嬉しかった。和解が成立すれば、判決を書く労力も削減されるため、裁判官にとっては、二重の嬉しさがある。
山形では、裁判官の数も少ないため、民事裁判だけでなく、強制執行の手続、逮捕状や捜索令状の発布、少年事件の審判など、多種多様な経験を積むことができた。
山形時代に担当した事件の中に、山形県内の町長が住民から訴えられた行政事件がある。この事件は社会的にも注目を集め、判例集等にも掲載されている。私が関わった山形地裁の判決は、住民らの請求棄却。この判決は控訴審である仙台高等裁判所でも維持された。
しかし、私が弁護士になった後、インターネットのニュースで、最高裁が破棄差戻の判決(仙台高裁の判決を破棄し、審理のやり直しを命じる判決)を下したことを知った。地裁、高裁で敗訴しても諦めずに信念を貫いた住民と代理人弁護士には、とても感服している。
ある日、山形地方裁判所に、仙台高等裁判所の長官が視察に来たことがあった。そのとき視察に来られた高裁長官は、その後、最高裁判所の長官になっている。
そんな高裁長官が視察に来るということで、山形地方裁判所をあげて、お出迎えした。視察後の懇親会も終わって帰ろうとしたところ、裁判長に呼び止められ、「二次会も行きなさい、こういう時に顔を売っておきなさいって」と言われ、(嫌々)二次会に参加した。
しかも、二次会では高裁長官の隣になる。
しかし、高裁長官と直に話ができたことは有益だった。最近でこそ、いわゆる過払金請求が流行っているが、私が裁判所にいた頃は、まだ最高裁の判決も出ておらず、「そもそも過払金を請求することができるのか?」という争点について、各裁判所で判断が分かれており、間もなく最高裁の判断が示されることになっていた。
その当時、私も、過払金訴訟の裁判を担当していたが、高裁長官と話している際、私が、「もうすぐ最高裁の判決が出るから、それに従って判決を考えようと思っているんです」と言ったところ、高裁長官から、「お前、何言ってんだ」と怒られた。その時、高裁長官から言われたのは、
「最高裁の判決は富士山ではいけない、連峰のようなイメージで考えなさい」という言葉だった。
この言葉は、弁護士になった今でも、肝に銘じている。
弁護士に転身
弁護士に転身した理由として、転勤の繰り返しで家族が体調を崩したこともあったが、
当時、司法制度改革の一環として司法試験合格者の大増員が決まったことも大きかった。
裁判官だった頃は、ずっと裁判官として仕事をする選択肢もあり、他方で、どこかで裁判官を辞めて弁護士をやってみたいという選択肢もあると考えていた。
そんな折、司法試験の合格者を将来的に3,000人に増やすことが決まり、
今辞めなければ、5年、10年後には弁護士が増えて転身が難しくなると感じ、弁護士への転身を決意した。司法研修所時代の弁護教官に、原哲男弁護士の事務所を紹介してもらい、“イソ弁”(事務所から給与をもらう勤務弁護士)として入所することになった。
裁判官として最後の任地となった山形地方裁判所は、とても暖かい人が多く、最後の登庁日、帰宅する際に、手の空いている職員が全員、玄関前に出てきてくれて、拍手で見送りをしてくれた。
弁護士転身後
弁護士になってから裁判所との違いを感じたのは、やはり営業をしなければいけないというところだった。最初は“イソ弁”として事務所から給料をもらっていたが、原弁護士の手術等の事情により、突如パートナー(事務所の共同経営者)に。翌年から給料がゼロになった。
当時、国選の刑事弁護や弁護士会が実施する法律相談会等に参加して、そこで仕事を得るのが精一杯で、私個人の顧客は殆どいなかったため、非常に大変だった。
それでも、何とか顧客が増えて安定したのは、経営者向けのセミナーや勉強会に参加するようになってからだった。自分自身の勉強のために参加したセミナーや勉強会で経営者の知り合いが増え、特に全〇回セミナーといった連続講座だと、受講者と毎回顔を合わせて親しくなり、そのような方々が仕事を依頼してくれたり顧問先になったりして、仕事が増えていった。
私の場合は、
勉強会に参加することが結果的に営業になったといえる。
現在の仕事は、顧問先を中心とした企業関係の案件が6割。ご紹介でお引き受けする案件が4割くらい。
10年以上にわたり、連日、顧問先から企業活動に関わる多種多様な問題について相談が寄せられ、これに対応してきたため、
中小企業に関する法律問題については、特に強みがあると考えている。医療の分野で、医師側からの相談が多いことも特徴の一つである。
2020年は、裁判官時代から通算すると20年目・45歳という節目の年となる。来たる2020年に向けて時々刻々、逓増していきたい。